日本人よ,「サイレント(・マジョリティ)」であることをやめよう

この題から「リベラリズム」を見出して嬉々として飛び付いた人間達も,決して内容から目を逸らさず,最後まで読み進めてはくれまいだろうか.



そもそも私は,「サイレント・マジョリティ」という単語がとても嫌いで堪らない.

まず,原義とその由来はこうであったはずだ.


かつて米国の国内世論がベトナム戦争の進退について紛糾していた1969年,兵役を回避できる一部のホワイトカラーのインテリ層とリベラル層,もしくは徴兵猶予を得られる程度には裕福な大学生が,米国における少数派でありながらも次第に反戦運動を過激化させていった結果,多数派から大きな反感や顰蹙を買っていたことはとても有名だ.違法性すら伴うデモ行為に対して,当時の大統領ニクソンはマイノリティに侵された「法と秩序の回復」を宣言し,また「米国民の大多数(Great Silent Majority)はベトナムの即時全面撤退を望んでいない」と発言した.
無論ニクソンも「名誉ある撤退」を掲げ引き上げを進める構えではあったが,結果的には支持率は8割を超え,続投がかかった次の大統領選挙においても49州で勝利を上げる事となる.その後ニクソンの取った撤退政策や外交政策の全てを肯定したいわけではないが,一部の人間による強烈な反戦運動は大きな副作用を生んだことに間違いはなく,しかし完全撤退に至る1973年までに行われた反戦運動は次第に沈静化したのだ.
この状況において,まさに「物言わぬ大衆」こそが正しい邦訳と言える.そして誰もが反戦の道を望む中においても「物言わぬ大衆」が自国の法と秩序を望んでいた故に起きた出来事であり,これは誰しもに強大な印象を残しただろう.

また,そこから遡って9年前…即ち1960年における日本の安保闘争についても,米国の事例と類似するものがあった.
当時の総理大臣岸信介は,安保反対デモへの世論の批判がない事についてどう思うか,と問われた際に,「声なき国民の声」と「声ある声」という二つの表現を用いた上で,民主政治の将来のためにも前者を尊重するという事を強調した.後継の池田優人総理によって,国民に信を問うために行われた安保解散に伴う総選挙では,種々の政策も含めて党としての獲得議席数を増やし大勝することになる.
こちらもやはり「物言わぬ大衆」というニュアンスが最適である.
また「声なき国民の声」に反発して発足した「声なき声の会」は,のちにベトナム戦争に対する平和団体へと姿を変えている.


即ち,「サイレントマジョリティ」なる単語に,本来「大衆抑圧」「同調圧力」などといった意味は存在せず,何よりその当時に発言した2人はそのような意図をしていなかったことは,先の通りに明白であった。
いや,むしろ事実の認識に徹底しようとするならば,そのような意味を原語に勝手に付け足す事などあってはならない.何よりこの2つのケースでは,後にそれぞれルールに則った選挙が行なわれており,そこで主権者である国民が意思を表示して,そして何よりもその結果は発言を補強するものであったのだ.
つまり単純に「現行の動向に賛同する多数の主権者が声を上げない状況を上手く汲み取り,その通りの結果が直後に判明した」という物語であるだけの事に,今更になってそこに仰々しく語義を付け加えて話を飛躍させたのだから,認知の歪みがどこかで確実に付き纏ってしまったのだと理解できるだろう.

これだから私は,「サイレント・マジョリティ」という単語が嫌いだ.

しかし現在はどうだろうか.実在の対象が「サイレント・マジョリティ」なる概念に当て嵌まるかどうかを裏付ける調査や推測といった行動もなく,「サイレント・マジョリティ」という言葉は活動家から多くの市民に向けられて簡単に投げつけられる.そもそも「サイレント・マジョリティ」それ自身には「大衆抑圧」「同調圧力」といった妙な意味合いが付け加えられ,そしてその行為に対して責任を取れる人間は最早おらず,愚鈍なムーヴメントによって穢されて空虚な存在と成り果てた,流行り言葉としての「サイレント・マジョリティ」だけが残されている.

それはなぜか?「リベラリズム」を胸に活動化してきたリベラリストによる各種メディアの展開によって,語彙の理解において最も重要である歴史の認識という手段が,世の中から根底から覆い隠されたからに他ならない.許すべきではない諸々の政治家達のみならず,有象無象に存在する市民団体やアーティストまでもがそれに加担し続けて,「ポリティカル・コレクトネス」に燃える人間の洗脳的な教育から始まり,今の若者は無差別に幅広く「サイレント・マジョリティ」に侵されている.
もちろん不可逆的な言葉の変化というのは歴史を振り返れば多々あり,人類が有史以来に積み上げてきたそのような流れを否定するつもりはない.しかし諸々のムーヴメントの先で我々に残されたのは,社会の実情を示す言葉として使わる「サイレント・マジョリティ」なのか?それは自らに同意しない他人を無差別に非難して優位に立つための言葉として使われる「サイレント・マジョリティ」ではないのか?
語義の変化に対して異論を唱える権利は誰にだってある筈だろう,それ故に私はこう反論したいのだ.歴史上の「サイレント・マジョリティ」とは,世の中を導くつもりで過激化に走った少数のエリートに対して法と秩序を守るために何もしなかったが,しかし大局を見ることが出来た政治家によって大いに奮起することで,民主政治に則った手法で民意として示すにまで至った,「弱者」である「サイレント・マジョリティ」を意味するのだと.

大体,一般人がニュートラルな「議論」を行える場所など,最早どこにも存在しない.

私は現在の「サイレント・マジョリティ」を,捏ち上げられた「社会的合意」によってのみ形成される「議論」の場で,傾斜を生成するためだけに作られた「社会的道徳」というルールに則って,自らの優位性を示すために用いられる「即効性の高い錦の御旗」ではないかと見ている.あくまで原義としてではなく,現状を見渡した上での解析である.


それがどれ程までに空虚な場であるとは言えど,そのような「社会的合意」「社会的道徳」で形成された「議論」の場は,当然だがそれに賛同する者ばかりが集まる.放送法に基づいて開催されて大衆のファクトチェックが入る党首討論でもない限りは,抗議集会の場でもデモ活動の場でもSNSの場でも,あまつさえ党首討論ではないTVの場においても,思想とそれに結びつく人間に対して常に権力的な勾配が発生する.「放送事故」が起きた瞬間,「村八分」が起きた瞬間,「追放」が起きた瞬間,我々はそういった事例を数多く目の当たりにしてきた筈だ.
そこでは一般社会の実態に関係なく,特定の方向性に基づいてマジョリティが定義され,すなわち弱者であるマイノリティとはその「議論」でオポジションを表明する人間に他ならない.しかし実際にオポジションを表明した人間は「悪きマジョリティ」と見做され,尚且つ「議論」の場における主勢側を,世間が従うことで世間によって救われるべき「善きマイノリティ」として対外的なアピールを行う.我々はその現象を幾度となく目に焼き付けてきた筈だ.

これは個人に保証されるべき,最低限の尊厳についての問題である.

私はこのような現象を,かつてのオウム真理教のように,特定の方向性を持つ閉じた集団(企業,宗教法人,学校法人,等々)によって行われる,基本的人権で保証されるべき人としての当然かつ最低限の尊厳を,完膚なきまでに徹底的に破壊する行為であると考えている.
開かれた世間から自由に批評され,開かれた世間と十分に対話する,そのような機会を与える間も無く見せしめにするものではないか.そういった手法で過激化を続けた集団が失墜に至るまでの様相は,人類史で幾度となく繰り返し露呈されてきたものであるが,自分の見ず知らずの内にそれに「冒される」リスクがあることを,現代人はしかと自覚するべきではないか.
ここで言う「冒される」とは,自分の所属している集団が,繰り返し放映された「私刑」の様子に感化され,自覚する間も無く方向性を失い制御が出来なくなる状況を指す.例え当事者としてその場にはいなくとも,情報を浴び続けることで異常さを受け入れてしまう,このようにして「サイレント・マジョリティ」の語義は塗り替えられ若者に刷り込まれてしまった.

そして何よりも,そういった手法を用いて特定の方向性を拡声器に乗せて世間にアピールし,その側では特定の他人を一方的に「サイレント・マジョリティ」だと決めつけ非難するのだから,我々はいつ何時も耐え難き尊厳の破壊を受けけていると考えるべきである.確かに「サイレント」である事に関して言えば我々の落ち度ではあるものの,他方で「マジョリティ」とは「善きマイノリティ」に従い「善きマイノリティ」を救う事を最初から義務付けられている訳ではなく,最低でも民意として反映され形成された政策によって実現されるべきだ.
と言うよりかは,お前は我々と相反する思考を持つのだろうと勝手に決めつけられて非難されることがまず異常な状況であり,せめて長いスパンで社会に取り扱われてきた・または調査や討論が行われてきた議題か,もしくは表面化している客観的な事実や事象について,せめて相手を相応に観察してから非難するべきだ.インターネットの発達によって足跡としての情報は残るのだから,昔よりかは世論の動向が仔細な記録として保存されやすくなったのかもしれない,これを自由自在に用いることもまた現在における重要な戦略の一つにはなっている(ただし後述する理由で完全な手法であるとは言えない).

なお,私はここに至るまで「サイレント・マジョリティ」の書き換えと「私刑」の執行の様子の記述を行なったに過ぎないが…

対義語であるところの,「ノイジー・マイノリティ」が存在する.

こちらはニクソンの言った「Vocal Minority」や岸信介の言った「声ある声」が概念としては該当する.

「ノイジー・マイノリティ」の邦訳としては「声高な少数派」となるが,私はそう言った人々を非難する気は決してない.この国の法や条例を犯さない,そして(私を含む)私人の名誉を無闇に毀損しないのであれば,声高であること自体は基本的人権で保証されるべき人としての当然かつ最低限の権利であるから,私もそう簡単に黙れと胸を張って言えるものではないだろう.

結局のところ,問題が巣食うのはその手法であり背景であり,それを支える「社会的道徳」「社会的合意」であり,これが全体に対して静観や萎縮をもたらし,多くの「サイレント・マジョリティ」を発生させ,さらにはその一部の尊厳すらも不可逆的に破壊し尽くしている現状を,私はこの場で非難したいと考えているだけなのだ.
そもそも「マジョリティ」と「マイノリティ」はスコープをズラせば簡単に立場が入れ替わるのだから,これを用いれば任意の状況と言論を生み出せるという事実はある意味では納得できるものであるし,当然だが悪用する人間だっているだろう.よって我々はそんな簡単なトリックには惑わされるべきではなく,私自身もこれ以降は,なるべく「マジョリティ」「マイノリティ」といった語句を使わないようにし,もしくは「マジョリティ」「マイノリティ」のスコープは政治活動の行える有権者の全体に定めるものとしたい.

「道徳」と「合意」を売り捌く,「悪きルーリング・クラス」を認識する.

「社会的道徳」「社会的合意」とは,端的に言えば最適化から最もかけ離れた「私刑」のためのギロチンであるが,ギロチンの正式名称が「正義の柱」であるように,私刑が伴う方向性は必ず「正義」に類する概念を孕む.例えば日本共産党表現規制が「社会的合意に基づく」ものとされたように,立憲民主党の追放理由が「社会的道徳に反いた」ものとされたように,近年では法や条例に則る手間暇をかけずに確実に「正義」を実行できる下地を用意することが流行しているようだ.
これらを「悪きルーリング・クラス」と呼称せずしてどうしようか?その上で前述した通り「正義」のアピールは組織の内だけに留まらず世論にまで蔓延るのだから流石に溜まったもんじゃない,といったことが皆様にもお分かりいただけると思う.

無論「ルーリング・クラス」は表立って動作する政治家や活動家にのみならず,インターネット上で多大な影響力を持つ人物やメディア(その形態を問わないものとする)(???『マスゴミなる所以』)も当然だが当てはまる.なんらかの利益を得るためなのか・もしくは純粋に理想を叶えるためなのか,といった個別の動機や事情についてはわからないが,共通してそれらは全て「ルーリングクラス」であり,我々はそれらに立ち向かう権利を有し,また勇気を持つべきであるということに変わりはないのだから.

誰しもに見えない「サイレント」がいる事実を,受け入れよう.

インターネットは確かにある程度に世相の可視化を実現したが,それでも決して完全な装置たり得ず,例えば自分のプロトコルが通用しないクラスタや信じられない姿形で生きるクラスタとの遭遇は今後も発生し続けるだろう.もしくはインターネットは全ての情報を拾い上げるなぞ不可能であり,我々が生きていても遭遇し得ない「サイレント」はどこかしらにいるだろう.
そういった事情を踏まえれば,確かに情報化社会が到来する前の「マイノリティ」は「ルーリング・クラス」たる人物や組織によって演出・公表されることで初めて注目されるものであり,しかし社会の全体を覆う「社会的道徳」「社会的合意」と相容れなければ決して注目される事はなく,生まれてから死ぬまで「サイレント」のままであった.

民主政治における投票による多数決は相応の最適化をもたらすが,そのベースには「社会的道徳」「社会的合意」がどこまでも存在し,それ故に「マイノリティ」が「弱者」となることに直結する.その過渡期においては民間メディアこそが社会において画期的な役割を果たすだろうと期待され,現に数多の報道によって社会に影響をもたらしてきた.この功績は紛れもない事実であり,現在を生きる我々はそういった過去の恩恵を受けていると言える.

時代に乗り遅れるくらいなら,環境を活かして権利を行使しよう.

しかしその過渡期もいよいよ終わり,「ルーリング・クラス」の在り方が問われる時代が遂に来た.事実に基づかない不適切な報道や発言が批判され,閉じられた組織(政治家・活動家・メディアのそういう在り方は好ましくはないが)に横たわる合意や道徳さらには思想や論理が暴かれ,そして何よりも旧態依然とした「ルーリング・クラス」に頼らずとも立ち上がる環境が少しづつ整備されている.
基本的人権で保証されるべき人としての当然かつ最低限の「発言し主張する権利」を,以前よりも大々的に行使できるようになったのだ.

インターネットの特性を踏まえれば,自らの言葉を電子の海に書き残すという事は,確かに自らにタトゥーを入れる行為と同義ではあるかもしれない.だからこそ自分で考えて自分で言わなければなければならないし,何もせずに旧時代の「ルーリング・クラス」から影響を受けるだけで「正義」を手にして満足するのは,人類史上この時代に生きる者としては非常に惜しいものであるし,何より私は決して満足できないだろう.

本当に地を這って成り上がる「弱者」が,どこかにいる.

これまでの記述においては,社会の全体を覆う「社会的道徳」と「社会的合意」により注目されなかった(忌避されていた?)「マイノリティ」が「弱者」であった旧時代では,言論の自由を背に立ち上がった民間の新たな「ルーリング・クラス」がそれを「ノイジー・マイノリティ」として扱うことで,社会の全体に影響をもたらし今日に至る基礎を築いてきたもの,その過激化の果てに独自の「社会的道徳」「社会的合意」を採用した「議論」の場を形成して「マジョリティ」と「マイノリティ」の関係を敢えて逆転させた上で「私刑」を執行して対外的なアピールを行い,「正義」である「善きマイノリティ」に「マジョリティ」が従い救済する様相を示しつつ非難によって「マジョリティ」の尊厳を不可逆的に破壊し尽くして,方向性が「冒される」ことで発生した相対的「弱者」である「サイレント・マジョリティ」と,現在も未だに根強く社会の全体を覆う「社会的道徳」と「社会的合意」によって存在し続ける絶対的な「弱者」である「サイレント・マイノリティ」が,侵害され続けている…という流れを扱った(それぞれのニュアンスはこれまでの文章を遡って確認して頂きたい).

即ち従来の「ルーリング・クラス」が取り扱ってこなかった絶対的な「弱者」もまた存在する,「弱者男性論」「弱者女性論」「発達障害者論」「精神障害者論」「氷河期被害者論」といった分野こそ,インターネットのアンダーグラウンドから始まった究極の「サイレント・マイノリティ」である.…しかし1つ目に限っては中々に話題にされず同情もされず,挙句には政府からも行政からも見捨てられているとされる,やはり日本全土の社会の全体を古来から覆う「社会的道徳」「社会的合意」がこの状況を齎したのだろうか?
しかしそういった人々がSNSで立ち上がり,表舞台にじわじわと影響力を与え始めている現在の様子にこそ,私は真の下剋上の形勢を見出している.今後の日本ではそうやって棄てられた人々が翻し始める反旗にどう対応していくかが注目されるだろう,

「ルーリング・クラス」によって加速され続けた外見至上主義と能力至上主義,及びそれらを支える市場主義と資本主義が棄民を生み出したのだから,責任を取ろうと「ルーリング・クラス」が積極的に自戒の念を表明した上で「マジョリティ」もそれを受け入れるのか,それとも嫌悪感に流されて徹底的な棄民政策を取ったために「弱者」の方から新たな「ルーリング・クラス」になるべくして活動を進めるのか,それならばその果てにどのような対立構造が生まれるのか?これは私にも予想がつかない.

こういう時代だからこそ,勇気を持って「ノイジー」になるべきだ.

数千字も前に話した「ルーリング・クラス」がもたらす尊厳の破壊に然り集団の方向性の征服にしかり,もはや「ルーリング・クラス」ではない人間にとって「サイレント」を維持する事に十分な利益を見出せない環境となった.もしもこの本文を読んで頂けたあなたに何か思うことがあれば,あなたの個人的なパラメータに関係なく「ノイジー」な人間として発言し主張する権利を行使する機会がある,恐らく誰よりも私がそう考えているのだ.
不思議な仮定をするのであれば,「自分はマジョリティに立つ側だ」という慢心を持つあなた自身が抱えている何かしらの要素が「マイノリティ」に分類されるかもしれないし,それですらない「ユニーク」な特性だと判明する可能性だってある,だから「ルーリング・クラス」が何かしらに手を加える前に,いや例え手を加えられた後だとしても,せめて1回だけでもあなたは声を上げるべきだ.

もちろんあなたは沈黙を貫いても構わない,それはあなたの考えるあなたが身近な誰かの為になれる選択であるかもしれないし(そういう事情って割とありそう),もしくは必死に生きているあなた自身の為であるかもしれない,私はあなたに語りかけるしこの現状も批判もするけど,最終的に権利を行使するのは貴方だ.
それでも更に2つ言えることがあるだろう,この本文を読んで頂けたあなたは既に「決して無差別に貶されるべき『サイレント・マジョリティ』であってはならない」ということであり,そして私はそれを実現ためにこの本文を投稿したということである.

「日本はマシ」は嘘か,真か

生活保護もあるし治安も良いしで何とかなっていますが,これは私の完全な憶測ですが,約20年で終わると思いますね.

選挙について

そういや何も書かないのもアレなので

希望がなければ,直ちに「白票」を投じるべきだろう.

「白票」を投げることは,無投票よりかは賢い選択である.「俺には投票に行く意志があるが,お前ら全員は俺がお名前を書くに値しない存在だ,俺はガッカリした」と匿名で胸を張って言えるも同然である.無投票ほど情けないやり方はなく,白票ほどロックなやり方は恐らく存在しない.
例え第三者にどれほど「白票」の存在意義を貶されようとも,投票率には白票も加算される上にそれを重要視して発言する人間がいる以上,「白票」の存在は確実に「俺は目をつけているぞ」という意思表示たり得る,出口調査でも堂々とそう言えば良いだけである.

いや,確かにちゃんと支持を表明した上で票田として扱われる状況の方が何倍も良いのだが,それでも無投票よりかはマシだ.一口に「サイレント」と言っても,やり方が色々あることだけは知っておいて欲しい.

私はどうするのか

共産と立民は速攻で切った,マイノリティ商売主戦法のポリコレリベラルに乗っ取られた偽りの野党共闘に見える,何より内輪での政策の理解と共有すら下手くそゆえ論外
最高裁の罷免は宇賀・三浦・草野にバツ,それ以外は保留か