骨壷と位牌に焚かれたフラッシュ

あまりにもあんまりなその絵面に衝撃を受けたため,それについての感想をここに書き残しておく.

今まで見かけてきた著名人の死の報道といえば,相応に着飾った告別式の会場にほぼほぼ限定されている印象がある.それだけにわざわざ火葬場にまで足を踏み入れて骨壷と位牌に何百ものフラッシュが焚かれたあの絵面には,何かしらの感想を抱かざるを得なかった.もちろん告別式は写り映えがするものだから,報道の場で用いられる映像にはよく使われるだろう.しかし今回はささやかな火葬の跡をつけて斎場にまで大量のカメラが入り込み,我が子に先立たれた遺族とそれが生きた証の骨壷と位牌に大量のフラッシュが差し込み,その悲劇すらも我が糧にせんとする畜生が獲物を見るような目でマイクを向けたとなれば,流石に話が変わってくる.まさしく人身の依代に取り憑いた悪魔・組織の体裁をなすハイエナの群れであるところの記者団には,流石の私も怒りや憤りを超越した畏敬の念すらも表せざるを得ない.ちなみにマスゴミが今まで上げた動画は全て通報している.

私は決して敬虔な宗教徒でもなく,まして普段から清廉潔癖な人間であろうとするつもりもなく,最善のためになるならば多少の取捨選択・一殺多生・大義滅親を視野に入れる人間であるつもりだ.しかしそれでも人の死における高潔さについて考えたことがないわけではなく,三途の河を渡って御佛になろうとするならば誰しもが高潔であるべきだと考えているし,それは生前の在り方や死に際の様に関係なく保証される最高の人権であるべきだ.そして何より三途の川を渡るために死者が現世の肉を捨てていく火葬という文化を考えた時に,火葬場はスピリチュアルな視点で見れば非常にシリアスでデリケートな場所であるということは明らかであり,この日本という国家において平均的な教育を受けて経験をしていれば,自然と道徳的に身についてわかるはずのものなのである.いや,火葬の文化がある国家の住む人間ならば故人との最後の別れという概念くらいは理解できるはずだろうし,火葬の文化がない国家の人間でも死体が燃やされて灰になり骨が少しだけ残ることの意味について考えれば直感的に浮かぶものがあるはずだろう.それこそが古今東西を問わず人間である限りは死と向き合った時に発揮されるはずの(社会的な極限状態でやむを得ない場合は別だが)感性である.そもそも人間に限らずとも,葬式で仲間を弔うをする動物もいる.
しかし神田沙也加を取り囲んだマスゴミには明らかにその感性が欠如しており,骨壷と位牌に煌々と焚かれたフラッシュはそれを強く印象付けるものであった.あれらはもう明らかに非人間的・非人道的な悪魔・畜生と捉えるしかなく,それどころか下手したら野生動物にすらも満たない可能性すらも感じられる.奴らは人に育てられて人に囲まれて飼い犬にも遠く及ばない感性を得たんだなぁと考え始めたら,いよいよそれらを育て上げた両親や上司の面や言葉を見てみたい気持ちを抑えきれないが,私の限られた感性ではこれが限界だった.そこのあなたは,この世のものとは思えぬあの奇妙奇天烈な絵面に何を感じただろうか?

他方で神田沙也加という存在は,その誕生に始まって死後に至るまで常に人目に囲まれていた.私こそまだ生まれていなかったが,当時は天皇家の出産のごとくブームが起きたという記録があるらしいのだから,在りながらにして著名人というプロパティがもたらしたこのような事態は,実子に自殺で先立たれるという悲劇を介してその要因となった両親の生き方に跳ね返ってきたとも言える.世間の興味や関心を相手に時間と感情から名利を貪る限りは誰しもがそういう可能性を手にする,それでいて脇が甘ければこのような辱めを受けてしまうことになるわけで,無論そのような状況に加担する腐葉土の中の蛆虫のような連中こそ唾棄すべき諸悪であることに違いはないものの,生き方に応じて名誉のために自衛する必要があるという教訓になっただろう.

加えてこれは極めて個人的な感想だが,焼かれたばかりの人の骨が入る器を撮影して世界にバラ撒くという行為に,どうしても呪術的な気持ち悪さを感じている.生前と同じく大勢の人間の興味や関心が集中し,フラッシュという眩い光が辺り一面にばら撒かれ,それも誰しもに前向きに歓迎される老衰による大往生ではなく,ただ一人ホテルで孤独に自殺を選択した人間の,その肉と魂の分離の儀式が行われた場所を,幾つものカメラとマイクが同時に観測して情報を拡散したのだ,もう無茶苦茶だ.
私は何よりも死者の大往生を祈念したい.一つは社会正義・人類道徳の実現の一環として,もう一つは現代文明に生きる人間の一員ができる誠意の贖罪と悪気の祓除の一環として,インターネット上に存在する関連の映像を見た次第で全て通報することにしたよ.